フィリピン ルバング島の民族が奪ったもの…紫電改 其の壱
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紫電改
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この項目では、日本海軍の戦闘機について記述しています。カネボウ化粧品が販売する育毛剤については「薬用紫電改」をご覧ください。
紫電改三(N1K4-J)試作機
用途:戦闘機
分類:局地戦闘機
設計者:川西龍三
製造者:川西航空機(現新明和工業)
運用者: 大日本帝国(日本海軍)
初飛行:1942年12月27日
生産数:1,422機(紫電と紫電改の合計)
退役:1945年8月15日
運用状況:退役
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「紫電改」(しでんかい)は、大日本帝国海軍が第二次世界大戦中に開発した戦闘機である。この名称は紫電の各型のうち、二一型以降の機体を呼ぶものである。
局地戦闘機紫電は、もともと水上戦闘機「強風」を元に開発された戦闘機であり、紫電二一型はこれを低翼に再設計した機体であった。また「紫電改」の名称は、試作名称の仮称一号局地戦闘機
改が一般化したもので[1]
、本機の制式名称は紫電二一型である。出自が迎撃戦に使われるべき局地戦闘機でありながらも、1943年以後、急速に進む
零式艦上戦闘機の陳腐化、その正統後継機の烈風の開発遅延への対応策の一環で、戦争末期における日本海軍の事実上の制空戦闘機としての零戦の後継機として運用され、1944年以降の日本海軍においての唯一敵に正面から対抗可能な制空戦闘機として太平洋戦争末期の日本本土防空戦で活躍した。
同時期に開発された同じ発動機を搭載する中島飛行機の四式戦闘機「疾風」
が保守的な設計だったのと対照的に、紫電改は新機軸の設計(自動空戦フラップ、層流翼)が特徴である。
本機に対する後世の評価は大きく分かれているが、その数奇な運命やネーミングから人気の高い機体である[2]
。米軍を中心とした連合軍側のコードネームは"George"。紫電改は正面から見ると低翼であることがわかるため、紫電一一型とは別機と認識されていた。さらに戦時中には情報不足から、疾風や零戦などの他機種と誤認して報告されていた。戦後になってから紫電が
George11、紫電改が
George21と分類され、呼ばれている。
日本海軍の搭乗員からは紫電が「J」、紫電改が「J改」と呼ばれたが[3]
、当時から「紫電」・「紫電改」と呼称していたという証言もある[3]
。343空の戦時日記には「紫電改」「紫電二一型」の記述もあり、実際には統一されていなかった[4]。
[編集]開発の流れ
[編集]強風から紫電へ
1941年(昭和16年)末、川西航空機(以下、川西)は水上機の需要減少を見込み、川西龍三社長の下、次機種制作を討議した
[5]
。川西社内で二式大艇の陸上攻撃機化、新型艦上攻撃機開発、川西十五試水上戦闘機(「強風」)の陸上戦闘機化の三案を検討した結果、十五試水上戦機陸戦案が決まった
[6]
。川西の菊原静男設計技師は12月28日に海軍航空本部を訪れ、技術本部長
多田力三少将に計画を提案。三菱で開発の進められていた局地戦闘機「雷電」と零戦の後継機「烈風
」の開発遅延に悩んでいた日本海軍は[7]
川西の提案を歓迎し[8]
、その場で承認された[6]
。しかし海軍技術者から陸上機製作の経験が浅い川西の技術力に対して疑問の声があがったため審議会が開かれ
[6]
、1942年4月15日に「仮称一号局地戦闘機」として試作許可を受けた
[6]
。「強風」は甲戦(艦上・水上戦闘機)として制式名称に「風」の字を含んでいるが、陸上戦闘機化された機体は乙戦扱いとなり、「電」の字を含む「紫電」の制式名称が付与された。
完成を急ぐため可能な限り強風の機体を流用することになっていたが、実際には発動機を「火星」から大馬力かつ小直径の「
誉」へ換装したこと、尾輪を装備したことなどから、機首部の絞り込みや機体後部が大幅に変更されており、そのまま使用できたのは操縦席付近のみであった
[6]
。しかし主翼については、車輪収容部分を加えた他はほぼ原型のままで、翼型も
航空研究所で開発されたLB翼型(層流翼)が強風より引き継がれている。自動空戦フラップも装備していたが、初期段階ではトラブルに見舞われた(後述)。
1942年(昭和17年)12月27日に試作一号機が完成し、12月31日に伊丹飛行場で初飛行を行ったが[9]
、当初から「誉」の不調に悩まされた。川西は「紫電ではなくエンジンの実験だ」という不満を抱き
[10][11]
、志賀淑雄少佐(テストパイロット)も「完成していなかった『ル』(誉の略称)の幻を追って設計された」と述べている
[12]
。紫電テストパイロットを努めた
坂井三郎少尉は『局地戦闘機 紫電一一型空中使用標準参考』を制作し、誉エンジンの扱いに細心の注意を払うよう勧告した
[13]
。このマニュアルは紫電改パイロットにも配られたという。紫電搭乗者の岩下邦夫大尉も、エンジンの不調と共に紫電の操縦席に排気ガスが入ってきて苦労した経験を持つ
[14]
。
紫電は「強風」の中翼形式を継承しており、主脚の寸法を長めに作らねばならなかった。そこで主脚に二段伸縮式の構造を採用した。
[6][15][16]
。試作型では主脚を縮めるのに1-2分かかり、後に20秒に改善された[17][18]
。ちなみに、脚部収納にかかる時間は、零戦12秒、紫電改9秒である。坂井によれば、離陸時に発生するプロペラ・トルクの作用で機体が左に振られ、調整しようとフットバーを踏みすぎて離陸時に主脚が折れる機体があったとされる
[19]
。ブレーキの効きが左右で違うこともあり、ベテランパイロットであっても安心して着陸できなかった
[20]
。
これらに起因する離着陸時の事故の多発、前方視界不良、米軍新鋭機に対する速度不足などの問題は紫電につきまとった。計画では最高速度653.8km/hを出すはずだったが、実測値は高度5,000mで570.4km/hであった。上昇力は6,000mまで7分、航続距離(増槽なし)全力30分+巡航(高度3,000m、360km/h)で2.8時間という性能だった
[21]
。速度低下の原因は、100オクタン燃料(有鉛)のかわりに92オクタン燃料を使用したこと、翼下面に20mm機銃をおさめたポッドを装着したことによる抵抗力の増大等が指摘される
[21]
。しかし試作機は、問題未解決のまま1943年(昭和18年)7月24日に軍に領収され、8月10日に「紫電一一型」として量産が命じられた
[21]
。これは、従来の海軍主力戦闘機である零戦では米英軍の新鋭戦闘機に太刀打ちできなくなってきたこと、ようやく完成した局地戦闘機
雷電の実戦配備が遅れていたことが主な原因である
[22]
。だが、紫電の操縦参考書には「紫電は強風を急速に陸上戦闘機に改設計したものだから、計画と設計の不備により、改善の余地大なり」と記されていた[23]。
[編集]紫電から紫電改へ
紫電改の防弾ガラス。厚さ20mmの硬化ガラスを3枚積層している。
紫電一一型は川西の設計陣にとっても満足できる戦闘機ではなく、紫電の試作機が飛行してから5日後の1943年(昭和18年)1月5日には、紫電を低翼化した「仮称一号局地戦闘機兵装強化第三案」の設計に着手した
[24]
。海軍は川西の計画を承認し、3月15日、正式に「仮称一号局地戦闘機
改 N1K2-J」の試作を指示した
[24]
。12月31日、試作一号機が完成した。
この試作機は主翼配置を中翼から低翼とし、また胴体全体を「誉」の直径に合わせて絞り込んだことで離着陸時の前下方の視界も改善された
[24]
。胴体は400mm延長され、水平尾翼は400mm取り付け位置が下げられており、全長が460mm増大、重量が250kg増加したにも関わらず紫電に比べてスマートな印象となっている
[25]
。トラブルが多かった二段伸縮式主脚も、主翼の低翼化に伴って全長を短縮できたため、廃止された。同時に部品点数を紫電一一型の2/3に削減して、量産性を大幅に高めていた
[24]
。
試作機は主翼配置が中翼から低翼式に変更されたが、主翼の外形は強風・紫電一一型と同様であった
[24]
。また紫電一一型・一一甲型(N1K1-Ja)では20mm機銃2挺をガンポッドとして主翼下に外付けしていたが、紫電改では紫電一一乙型(N1K1-Jb)と同様、4挺とも翼内装備としている。また零戦が採用した「操縦索の剛性低下」と同様、低・高速度域における操舵感覚と舵の効きの平均化を可能とする腕比変更装置が導入された。
「強風」以来の自動空戦フラップも装備し、改良により実用性を高めている。当時、川西航空機検査部のテストパイロットだった岡安宗吉はこれを評価している。開発者である田中賀之
[26]
によれば、紫電をテストした志賀淑雄は空戦性能の向上を評価
[27]
。一方、三四三空で紫電一一型の教官を務めた坂井は[28]
戦後のインタビューで、「水銀の表面が酸化して導通が悪くなり、油圧機が誤作動する(水銀が常温で酸化することはありえない)」「旋回性能は良くなるが、作動の面で信頼性に欠けた」「舵が効きすぎた時の修正が難しい」と全く評価していない
[29]
。田中や、川西設計課長の菊原も、試作機や初期量産型紫電において自動空戦フラップのトラブルが続出したことを認めている
[10][27][30]
。この初期欠陥は順次改修され、実戦に配備された紫電、紫電改において故障は皆無だったという
[31]
。紫電改のテストパイロットをつとめて空母「信濃」に着艦した山本重久は、紫電では信頼できなかった自動空戦フラップだが紫電改では作動確実とし、1945年2月17日における紫電改での実戦でも有効に活用して米軍機を撃墜している
[32]
。笠井智一兵曹も、4月12日喜界島上空の戦闘で米軍機と格闘戦を行い、自動空戦フラップの絶大な効果を体感している
[33]
。その一方で、熟練搭乗員の中にはフラップ作動による速度低下を嫌い、自動空戦フラップを使わず空戦に挑んだものもいたという。
[要出典]
零戦の弱点であった防弾装備の欠如に関し、本機では、主翼や胴体内に搭載された燃料タンクは全て防弾タンク(外装式防漏タンク)であり、更に自動消火装置を装備して改善された。米軍の調査によると、燃料タンクにセルフシーリング機能は無かったとされるが
[34]
、2007年にオハイオ州デイトンにおいて復元のため分解された紫電二一甲型(5312号機)の燃料タンク外側に防弾ゴムと金属網、炭酸ガス噴射式自動消火装置が確認できる
[35]
。操縦席前方の防弾ガラスは装備されていたが、操縦席後方の防弾板は計画のみで実際には未装備だったとされている。
ただし、防弾板が装備された機体を目撃したという搭乗員の証言もある。
[要出典]
。笠井によれば、後部には厚さ10cmくらいの木の板しかなく、後方に不安を抱えていたという
[36]
。
1944年(昭和19年)1月、志賀淑雄少佐、古賀一中尉、増山兵曹らによって紫電改のテスト飛行が行われ、志賀は「紫電の欠陥が克服されて生まれ変わった」と高い評価を与えた
[24]
。また志賀が急降下テストを行った際には、計器速度796.4km/hを記録し、零戦に比べて頑丈な機体であることを証明
[37]
。最大速度は11.1〜24.1km/h、上昇性能、航続距離も向上し、空戦フラップの作動も良好だった
[37]
。日本海軍は「改造ノ効果顕著ナリ」と判定し、4月4日に全力生産を指示する
[37]
。1944年度中に試作機をふくめて67機が生産された[37]
。1945年(昭和20年)1月制式採用となり「紫電二一型(N1K2-J)
紫電改」が誕生した。
戦況が悪化しているのに、既に四式戦闘機を配備していた陸軍と違い、零式艦上戦闘機に替わる次世代型の新型機を一向に装備できないことに海軍は焦りを感じていた。そこで乙戦でありながらも甲戦としても使える紫電改は、前線部隊の陳腐化が目に見えて現れていた零戦を代換する機体にうってつけであった。(
坂井三郎中尉も本機を零戦の前線での事実上の後継機であると認めている。)紫電改を高く評価した海軍は開発中の新型機を差し置いて、本機を零戦後継の次期主力制空戦闘機として配備することを急ぎ決定。1944年3月には三菱に雷電と烈風の生産中止、紫電改の生産を指示した
[38]
。航空本部は19年度に紫電と紫電改合計で2,170機を発注、20年1月11日には11,800機という生産計画を立てた
[38]
。しかし空襲の影響で計画は破綻し、川西で406機(強風97機、紫電1,007機)、昭和飛行機2機、愛知2機、第21航空廠で1機、三菱で9機が生産されたに留まる
[39]
。 また、紫電改は強風を基に度々改造を重ねた機体故、性能的な陳腐化は零戦より早いと海軍は見込んでいた。実際に制式採用から僅か3,4ヶ月後の昭和20年5月頃には昭和21年以後を見越した次期主力機の開発が開始されていた。陽の目は見なかったもの、本機の更なる性能向上型の他に、凍結された
陣風
の試作再開 などが検討されていた。[40]
。
本機は遠方から見るとF6F ヘルキャットとよく似ており、日本海軍パイロット自身が誤認しかけるほどだった[41]
。味方から誤射されることもあり、1945年3月20日には
戦艦大和 が哨戒飛行中の紫電改(笠井智一搭乗機)を誤射した
[42]
。陸軍機も紫電改を誤射することがあり、笠井は疾風(四式戦)4機に空戦を挑まれ、交戦直前で陸軍機側が気付いたという
[43]
。同士撃ちを避けるため、知覧町の陸軍基地に零戦五二型、紫電一一型、紫電改が出張して陸軍兵に実物を見せたことがある
[44]
。8月12日にも友軍地上砲火で3機が被弾、不時着している[45]
。源田実大佐(司令)は松山の三四三空に紫電改と歴戦のベテラン・パイロットを集めて終戦まで本土防空の任務についた。
詳細は「第343海軍航空隊」を参照
[編集]派生型
[編集]強風・紫電
十五試水上戦闘機/強風一一型(N1K1)
紫電シリーズの母体となった水上戦闘機。発動機は「雷電」と同じ火星一三型を搭載。武装は翼内20mm機銃2挺、胴体7.7mm機銃2挺である。試作一号機のみ二重反転プロペラを装備。
仮称一号局地戦闘機/紫電一一型(N1K1-J)
発動機を火星一三型から誉二一型に換装した陸上戦闘機型の極初期型。武装は翼下のガンポッドに20mm機銃2挺、胴体7.7mm機銃2挺。
紫電一一甲型(N1K1-Ja)
胴体の7.7mm機銃を廃止し、翼内20mm機銃2挺を追加した武装強化型。
紫電一一乙型(N1K1-Jb)
翼下ガンポッド内の20mm機銃を廃止して翼内に20mm機銃4挺を内蔵した型。増速用火薬ロケット6本装着の機体存在。
紫電一一丙型(N1K1-Jc)
一一乙型の爆装を、60kg爆弾4発または250kg爆弾2発に強化した型。試作のみ。
[編集]紫電改
仮称一号局地戦闘機改/紫電二一型(N1K2-J)
紫電改の最初の量産型で99機生産[38]
された。51号機以降は20mm機銃の取り付け角度を3度上向きに変更。爆弾投下は手動式。
紫電二一甲型(N1K2-Ja)
二一型の爆装を60kg爆弾4発または250kg爆弾2発に強化した型。垂直安定板前縁を削り、面積を13%減積した。テストパイロットを務めた山本重久少佐によると、操縦性と安定性のバランスが改善された。生産機101〜200号機
[38]
。
試製紫電三一型(N1K3-J)
試製紫電改一。爆弾投下器を電気投下式に改良。発動機架を前方に150mm延長し、機首に三式十三粍機銃一型2挺を追加した武装強化型
[38]
。生産201号機以降で、1945年2月に少数が生産[38]
。
試製紫電改二(N1K3-A)
試製紫電三一型に着艦フック、尾部の補強などの改造を施した艦上戦闘機型。試作2機。1944年11月12日、山本久重少佐の操縦で東京湾で行われた
航空母艦信濃での着艦実験に参加[38][46]
。
試製紫電三二型(N1K4-J)
試製紫電改三。三一型の発動機を低圧燃料噴射装置付きの誉二三型(NK9H-S ハ四五-二三型)に変更した型。鳴尾517、520号機のみ
[38]
。
試製紫電改四(N1K4-A)
試製紫電改三(試製紫電三二型)に着艦フックなどを追加した艦上戦闘機型[38]
。試作機が製作されたかは不明。
試製紫電改五(N1K5-J)
二一甲型の発動機を次機艦上戦闘機となるはずであった「烈風」と同じハ四三-一一型(離昇2,200馬力)に変更した型
[38]
。13mm機銃は廃止され、機首の形状が変わった。完成直前に工場被爆によりテスト飛行中止[38]
。二五型、もしくは五三型とも表記される
[47]
。
仮称紫電性能向上型
発動機を二段三速過給器付きの誉四四型(ハ四五-四四型)に換装した航空性能向上型。計画のみ[38]
。
仮称紫電練習戦闘機型(N1K2-K)
二一型を複座とし練習機としたもの。胴体は延長されておらず、速力若干低下[38]
。小数機生産。
紫電改鋼製型
紫電改を鋼製化したタイプで、計画のみ。重量が増大するため、翼端延長の予定[38]
。
[編集]諸元
制式名称 紫電一一型 紫電二一型
機体略号 N1K1-J N1K2-J
全幅 11.99m
全長 8.885m 9.376m
全高 4.058m 3.96m
翼面積 23.5m
翼面荷重 165.96 kg/m 161.70 kg/m
自重 2,897kg 2,657kg
正規全備重量 3,900kg 3,800kg
発動機 誉二一型(離昇1,990馬力)
最高速度 583km/h(高度5,900m) 594km/h(高度5,600m)
実用上昇限度 12,500m 10,760m
航続距離 1,432km(正規)/2,545km(過荷) 1,715km(正規)/2,392km(過荷)
武装
主翼下ポッド20mm機銃2挺(携行弾数各100発)
機首7.7mm機銃2挺(携行弾数各550発)
翼内20mm機銃4挺
(携行弾数内側各200発、外側各250発)計900発
爆装 60kg爆弾4発、250kg爆弾2発
生産機数 1,007機 415機
生産機数はそれぞれ一一型全体、二一型以降の数値。
[編集]実戦
[編集]紫電一一型
紫電搭乗経験者の中は、零戦に比べて機銃の命中率が高く、高空性能・降下速度は優れていたが、鈍重で空戦性能は零戦より遥かに劣る「乗りにくい」戦闘機で
[48]
、F6Fには手も足も出なかったとしている[49]
。初めて紫電を見た笠井は、紫電が
F4Fワイルドキャットと酷似していたと証言。陸軍の誤射で撃墜された機体や、逆に米軍機を誤認させて接近し撃墜した例もあるという
[50]
。また着陸時に油圧で二段式に縮めて格納する引き込み脚部のトラブルは深刻だった。343空戦闘301隊では1月1日から8日にかけて、3日に1機の割合で脚部故障により紫電を失っている
[20]
。
このように紫電は数々のトラブルを抱え、米新鋭戦闘機に対しての優位も確保出来ていなかったが、第一航空艦隊で新編成される10個航空軍のうち4個(341空、初代343空、345空、361空)が紫電装備予定とするほどの期待を集めた
[51]
。だが紫電の生産は遅れ、日米機動部隊の決戦となったマリアナ沖海戦に参加した紫電部隊は1つもなかった。初代343空は零戦で戦い、345空、361空は紫電の供給もなく解隊された。
第341海軍航空隊に最初の紫電が配備されたのは1944年1月だが、零戦との交替は遅々として進まず、7月の時点でも編隊飛行訓練を
九三式中間練習機で行っていた[52]
。8月から9月にかけて341空が台湾・高雄に進出し、10月にはウィリアム・ハルゼー
提督率いる第38任務部隊を迎撃した。10月12日、紫電31機と米軍機60機が交戦し、米軍機撃墜10、紫電14機喪失という初陣であった
[52]
。10月15日まで台湾沖航空戦を戦った。11月、341空と201空はフィリピンに進出して
レイテ沖海戦に参加する[52]
。紫電は米軍新鋭機との空中戦、強行偵察[53]
、米魚雷艇攻撃など多様な任務に投入され、機材と搭乗者双方の疲弊により消耗していった
[54]
。1945年1月7日、341空から特攻機・直掩機ともに紫電で編成された特攻隊が出撃した
[55]
。こうして341空は全装備紫電を失い[56]
、フィリピンから台湾へ撤退した[57]
。
沖縄戦では偵察十一飛行隊、偵察十二飛行隊に配備され、台湾から出撃した。ここでは制空任務だけでなく、強行偵察、戦果確認、索敵任務に投入された。本土防空戦にも数多くの紫電が参加し、343空にも紫電が配備されている。坂井三郎は343空で紫電の教官を務め、彼の教える戦闘701隊は紫電の事故が他部隊に比べて最も少なかったという
[58]
。1945年3月19日の著名な戦闘にも7機の紫電が出撃し
[59]
、1機が撃墜された[57]
。5月29日は戦闘403飛行隊6機の紫電がB-29を迎撃して2機を撃墜、7月8日には16機の紫電が50機のB-29、250機の
P-51マスタングを迎撃して4機を撃墜するなど
[60]
、劣勢ながら奮戦している。なお、1945年2月17日の米機動部隊艦載機との戦闘では、紫電に搭乗していた山崎卓(上飛曹)が横浜市杉田上空で落下傘降下。
[61]
。(なお、山崎は降下の後に暴徒化した市民によって殺害され、以降日本海軍ではパイロットに味方であることを示すため、飛行服及び飛行帽に日の丸を縫い付けることとなる)尾翼にカタカナのヨ−のマ−クをつけた紫電は横須賀航空隊に配備され終戦まで京浜地区の防空にあたる。
紫電改
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紫電改三(N1K4-J)試作機
用途:戦闘機
分類:局地戦闘機
設計者:川西龍三
製造者:川西航空機(現新明和工業)
運用者: 大日本帝国(日本海軍)
初飛行:1942年12月27日
生産数:1,422機(紫電と紫電改の合計)
退役:1945年8月15日
運用状況:退役
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「紫電改」(しでんかい)は、大日本帝国海軍が第二次世界大戦中に開発した戦闘機である。この名称は紫電の各型のうち、二一型以降の機体を呼ぶものである。
局地戦闘機紫電は、もともと水上戦闘機「強風」を元に開発された戦闘機であり、紫電二一型はこれを低翼に再設計した機体であった。また「紫電改」の名称は、試作名称の仮称一号局地戦闘機
改が一般化したもので[1]
、本機の制式名称は紫電二一型である。出自が迎撃戦に使われるべき局地戦闘機でありながらも、1943年以後、急速に進む
零式艦上戦闘機の陳腐化、その正統後継機の烈風の開発遅延への対応策の一環で、戦争末期における日本海軍の事実上の制空戦闘機としての零戦の後継機として運用され、1944年以降の日本海軍においての唯一敵に正面から対抗可能な制空戦闘機として太平洋戦争末期の日本本土防空戦で活躍した。
同時期に開発された同じ発動機を搭載する中島飛行機の四式戦闘機「疾風」
が保守的な設計だったのと対照的に、紫電改は新機軸の設計(自動空戦フラップ、層流翼)が特徴である。
本機に対する後世の評価は大きく分かれているが、その数奇な運命やネーミングから人気の高い機体である[2]
。米軍を中心とした連合軍側のコードネームは"George"。紫電改は正面から見ると低翼であることがわかるため、紫電一一型とは別機と認識されていた。さらに戦時中には情報不足から、疾風や零戦などの他機種と誤認して報告されていた。戦後になってから紫電が
George11、紫電改が
George21と分類され、呼ばれている。
日本海軍の搭乗員からは紫電が「J」、紫電改が「J改」と呼ばれたが[3]
、当時から「紫電」・「紫電改」と呼称していたという証言もある[3]
。343空の戦時日記には「紫電改」「紫電二一型」の記述もあり、実際には統一されていなかった[4]。
[編集]開発の流れ
[編集]強風から紫電へ
1941年(昭和16年)末、川西航空機(以下、川西)は水上機の需要減少を見込み、川西龍三社長の下、次機種制作を討議した
[5]
。川西社内で二式大艇の陸上攻撃機化、新型艦上攻撃機開発、川西十五試水上戦闘機(「強風」)の陸上戦闘機化の三案を検討した結果、十五試水上戦機陸戦案が決まった
[6]
。川西の菊原静男設計技師は12月28日に海軍航空本部を訪れ、技術本部長
多田力三少将に計画を提案。三菱で開発の進められていた局地戦闘機「雷電」と零戦の後継機「烈風
」の開発遅延に悩んでいた日本海軍は[7]
川西の提案を歓迎し[8]
、その場で承認された[6]
。しかし海軍技術者から陸上機製作の経験が浅い川西の技術力に対して疑問の声があがったため審議会が開かれ
[6]
、1942年4月15日に「仮称一号局地戦闘機」として試作許可を受けた
[6]
。「強風」は甲戦(艦上・水上戦闘機)として制式名称に「風」の字を含んでいるが、陸上戦闘機化された機体は乙戦扱いとなり、「電」の字を含む「紫電」の制式名称が付与された。
完成を急ぐため可能な限り強風の機体を流用することになっていたが、実際には発動機を「火星」から大馬力かつ小直径の「
誉」へ換装したこと、尾輪を装備したことなどから、機首部の絞り込みや機体後部が大幅に変更されており、そのまま使用できたのは操縦席付近のみであった
[6]
。しかし主翼については、車輪収容部分を加えた他はほぼ原型のままで、翼型も
航空研究所で開発されたLB翼型(層流翼)が強風より引き継がれている。自動空戦フラップも装備していたが、初期段階ではトラブルに見舞われた(後述)。
1942年(昭和17年)12月27日に試作一号機が完成し、12月31日に伊丹飛行場で初飛行を行ったが[9]
、当初から「誉」の不調に悩まされた。川西は「紫電ではなくエンジンの実験だ」という不満を抱き
[10][11]
、志賀淑雄少佐(テストパイロット)も「完成していなかった『ル』(誉の略称)の幻を追って設計された」と述べている
[12]
。紫電テストパイロットを努めた
坂井三郎少尉は『局地戦闘機 紫電一一型空中使用標準参考』を制作し、誉エンジンの扱いに細心の注意を払うよう勧告した
[13]
。このマニュアルは紫電改パイロットにも配られたという。紫電搭乗者の岩下邦夫大尉も、エンジンの不調と共に紫電の操縦席に排気ガスが入ってきて苦労した経験を持つ
[14]
。
紫電は「強風」の中翼形式を継承しており、主脚の寸法を長めに作らねばならなかった。そこで主脚に二段伸縮式の構造を採用した。
[6][15][16]
。試作型では主脚を縮めるのに1-2分かかり、後に20秒に改善された[17][18]
。ちなみに、脚部収納にかかる時間は、零戦12秒、紫電改9秒である。坂井によれば、離陸時に発生するプロペラ・トルクの作用で機体が左に振られ、調整しようとフットバーを踏みすぎて離陸時に主脚が折れる機体があったとされる
[19]
。ブレーキの効きが左右で違うこともあり、ベテランパイロットであっても安心して着陸できなかった
[20]
。
これらに起因する離着陸時の事故の多発、前方視界不良、米軍新鋭機に対する速度不足などの問題は紫電につきまとった。計画では最高速度653.8km/hを出すはずだったが、実測値は高度5,000mで570.4km/hであった。上昇力は6,000mまで7分、航続距離(増槽なし)全力30分+巡航(高度3,000m、360km/h)で2.8時間という性能だった
[21]
。速度低下の原因は、100オクタン燃料(有鉛)のかわりに92オクタン燃料を使用したこと、翼下面に20mm機銃をおさめたポッドを装着したことによる抵抗力の増大等が指摘される
[21]
。しかし試作機は、問題未解決のまま1943年(昭和18年)7月24日に軍に領収され、8月10日に「紫電一一型」として量産が命じられた
[21]
。これは、従来の海軍主力戦闘機である零戦では米英軍の新鋭戦闘機に太刀打ちできなくなってきたこと、ようやく完成した局地戦闘機
雷電の実戦配備が遅れていたことが主な原因である
[22]
。だが、紫電の操縦参考書には「紫電は強風を急速に陸上戦闘機に改設計したものだから、計画と設計の不備により、改善の余地大なり」と記されていた[23]。
[編集]紫電から紫電改へ
紫電改の防弾ガラス。厚さ20mmの硬化ガラスを3枚積層している。
紫電一一型は川西の設計陣にとっても満足できる戦闘機ではなく、紫電の試作機が飛行してから5日後の1943年(昭和18年)1月5日には、紫電を低翼化した「仮称一号局地戦闘機兵装強化第三案」の設計に着手した
[24]
。海軍は川西の計画を承認し、3月15日、正式に「仮称一号局地戦闘機
改 N1K2-J」の試作を指示した
[24]
。12月31日、試作一号機が完成した。
この試作機は主翼配置を中翼から低翼とし、また胴体全体を「誉」の直径に合わせて絞り込んだことで離着陸時の前下方の視界も改善された
[24]
。胴体は400mm延長され、水平尾翼は400mm取り付け位置が下げられており、全長が460mm増大、重量が250kg増加したにも関わらず紫電に比べてスマートな印象となっている
[25]
。トラブルが多かった二段伸縮式主脚も、主翼の低翼化に伴って全長を短縮できたため、廃止された。同時に部品点数を紫電一一型の2/3に削減して、量産性を大幅に高めていた
[24]
。
試作機は主翼配置が中翼から低翼式に変更されたが、主翼の外形は強風・紫電一一型と同様であった
[24]
。また紫電一一型・一一甲型(N1K1-Ja)では20mm機銃2挺をガンポッドとして主翼下に外付けしていたが、紫電改では紫電一一乙型(N1K1-Jb)と同様、4挺とも翼内装備としている。また零戦が採用した「操縦索の剛性低下」と同様、低・高速度域における操舵感覚と舵の効きの平均化を可能とする腕比変更装置が導入された。
「強風」以来の自動空戦フラップも装備し、改良により実用性を高めている。当時、川西航空機検査部のテストパイロットだった岡安宗吉はこれを評価している。開発者である田中賀之
[26]
によれば、紫電をテストした志賀淑雄は空戦性能の向上を評価
[27]
。一方、三四三空で紫電一一型の教官を務めた坂井は[28]
戦後のインタビューで、「水銀の表面が酸化して導通が悪くなり、油圧機が誤作動する(水銀が常温で酸化することはありえない)」「旋回性能は良くなるが、作動の面で信頼性に欠けた」「舵が効きすぎた時の修正が難しい」と全く評価していない
[29]
。田中や、川西設計課長の菊原も、試作機や初期量産型紫電において自動空戦フラップのトラブルが続出したことを認めている
[10][27][30]
。この初期欠陥は順次改修され、実戦に配備された紫電、紫電改において故障は皆無だったという
[31]
。紫電改のテストパイロットをつとめて空母「信濃」に着艦した山本重久は、紫電では信頼できなかった自動空戦フラップだが紫電改では作動確実とし、1945年2月17日における紫電改での実戦でも有効に活用して米軍機を撃墜している
[32]
。笠井智一兵曹も、4月12日喜界島上空の戦闘で米軍機と格闘戦を行い、自動空戦フラップの絶大な効果を体感している
[33]
。その一方で、熟練搭乗員の中にはフラップ作動による速度低下を嫌い、自動空戦フラップを使わず空戦に挑んだものもいたという。
[要出典]
零戦の弱点であった防弾装備の欠如に関し、本機では、主翼や胴体内に搭載された燃料タンクは全て防弾タンク(外装式防漏タンク)であり、更に自動消火装置を装備して改善された。米軍の調査によると、燃料タンクにセルフシーリング機能は無かったとされるが
[34]
、2007年にオハイオ州デイトンにおいて復元のため分解された紫電二一甲型(5312号機)の燃料タンク外側に防弾ゴムと金属網、炭酸ガス噴射式自動消火装置が確認できる
[35]
。操縦席前方の防弾ガラスは装備されていたが、操縦席後方の防弾板は計画のみで実際には未装備だったとされている。
ただし、防弾板が装備された機体を目撃したという搭乗員の証言もある。
[要出典]
。笠井によれば、後部には厚さ10cmくらいの木の板しかなく、後方に不安を抱えていたという
[36]
。
1944年(昭和19年)1月、志賀淑雄少佐、古賀一中尉、増山兵曹らによって紫電改のテスト飛行が行われ、志賀は「紫電の欠陥が克服されて生まれ変わった」と高い評価を与えた
[24]
。また志賀が急降下テストを行った際には、計器速度796.4km/hを記録し、零戦に比べて頑丈な機体であることを証明
[37]
。最大速度は11.1〜24.1km/h、上昇性能、航続距離も向上し、空戦フラップの作動も良好だった
[37]
。日本海軍は「改造ノ効果顕著ナリ」と判定し、4月4日に全力生産を指示する
[37]
。1944年度中に試作機をふくめて67機が生産された[37]
。1945年(昭和20年)1月制式採用となり「紫電二一型(N1K2-J)
紫電改」が誕生した。
戦況が悪化しているのに、既に四式戦闘機を配備していた陸軍と違い、零式艦上戦闘機に替わる次世代型の新型機を一向に装備できないことに海軍は焦りを感じていた。そこで乙戦でありながらも甲戦としても使える紫電改は、前線部隊の陳腐化が目に見えて現れていた零戦を代換する機体にうってつけであった。(
坂井三郎中尉も本機を零戦の前線での事実上の後継機であると認めている。)紫電改を高く評価した海軍は開発中の新型機を差し置いて、本機を零戦後継の次期主力制空戦闘機として配備することを急ぎ決定。1944年3月には三菱に雷電と烈風の生産中止、紫電改の生産を指示した
[38]
。航空本部は19年度に紫電と紫電改合計で2,170機を発注、20年1月11日には11,800機という生産計画を立てた
[38]
。しかし空襲の影響で計画は破綻し、川西で406機(強風97機、紫電1,007機)、昭和飛行機2機、愛知2機、第21航空廠で1機、三菱で9機が生産されたに留まる
[39]
。 また、紫電改は強風を基に度々改造を重ねた機体故、性能的な陳腐化は零戦より早いと海軍は見込んでいた。実際に制式採用から僅か3,4ヶ月後の昭和20年5月頃には昭和21年以後を見越した次期主力機の開発が開始されていた。陽の目は見なかったもの、本機の更なる性能向上型の他に、凍結された
陣風
の試作再開 などが検討されていた。[40]
。
本機は遠方から見るとF6F ヘルキャットとよく似ており、日本海軍パイロット自身が誤認しかけるほどだった[41]
。味方から誤射されることもあり、1945年3月20日には
戦艦大和 が哨戒飛行中の紫電改(笠井智一搭乗機)を誤射した
[42]
。陸軍機も紫電改を誤射することがあり、笠井は疾風(四式戦)4機に空戦を挑まれ、交戦直前で陸軍機側が気付いたという
[43]
。同士撃ちを避けるため、知覧町の陸軍基地に零戦五二型、紫電一一型、紫電改が出張して陸軍兵に実物を見せたことがある
[44]
。8月12日にも友軍地上砲火で3機が被弾、不時着している[45]
。源田実大佐(司令)は松山の三四三空に紫電改と歴戦のベテラン・パイロットを集めて終戦まで本土防空の任務についた。
詳細は「第343海軍航空隊」を参照
[編集]派生型
[編集]強風・紫電
十五試水上戦闘機/強風一一型(N1K1)
紫電シリーズの母体となった水上戦闘機。発動機は「雷電」と同じ火星一三型を搭載。武装は翼内20mm機銃2挺、胴体7.7mm機銃2挺である。試作一号機のみ二重反転プロペラを装備。
仮称一号局地戦闘機/紫電一一型(N1K1-J)
発動機を火星一三型から誉二一型に換装した陸上戦闘機型の極初期型。武装は翼下のガンポッドに20mm機銃2挺、胴体7.7mm機銃2挺。
紫電一一甲型(N1K1-Ja)
胴体の7.7mm機銃を廃止し、翼内20mm機銃2挺を追加した武装強化型。
紫電一一乙型(N1K1-Jb)
翼下ガンポッド内の20mm機銃を廃止して翼内に20mm機銃4挺を内蔵した型。増速用火薬ロケット6本装着の機体存在。
紫電一一丙型(N1K1-Jc)
一一乙型の爆装を、60kg爆弾4発または250kg爆弾2発に強化した型。試作のみ。
[編集]紫電改
仮称一号局地戦闘機改/紫電二一型(N1K2-J)
紫電改の最初の量産型で99機生産[38]
された。51号機以降は20mm機銃の取り付け角度を3度上向きに変更。爆弾投下は手動式。
紫電二一甲型(N1K2-Ja)
二一型の爆装を60kg爆弾4発または250kg爆弾2発に強化した型。垂直安定板前縁を削り、面積を13%減積した。テストパイロットを務めた山本重久少佐によると、操縦性と安定性のバランスが改善された。生産機101〜200号機
[38]
。
試製紫電三一型(N1K3-J)
試製紫電改一。爆弾投下器を電気投下式に改良。発動機架を前方に150mm延長し、機首に三式十三粍機銃一型2挺を追加した武装強化型
[38]
。生産201号機以降で、1945年2月に少数が生産[38]
。
試製紫電改二(N1K3-A)
試製紫電三一型に着艦フック、尾部の補強などの改造を施した艦上戦闘機型。試作2機。1944年11月12日、山本久重少佐の操縦で東京湾で行われた
航空母艦信濃での着艦実験に参加[38][46]
。
試製紫電三二型(N1K4-J)
試製紫電改三。三一型の発動機を低圧燃料噴射装置付きの誉二三型(NK9H-S ハ四五-二三型)に変更した型。鳴尾517、520号機のみ
[38]
。
試製紫電改四(N1K4-A)
試製紫電改三(試製紫電三二型)に着艦フックなどを追加した艦上戦闘機型[38]
。試作機が製作されたかは不明。
試製紫電改五(N1K5-J)
二一甲型の発動機を次機艦上戦闘機となるはずであった「烈風」と同じハ四三-一一型(離昇2,200馬力)に変更した型
[38]
。13mm機銃は廃止され、機首の形状が変わった。完成直前に工場被爆によりテスト飛行中止[38]
。二五型、もしくは五三型とも表記される
[47]
。
仮称紫電性能向上型
発動機を二段三速過給器付きの誉四四型(ハ四五-四四型)に換装した航空性能向上型。計画のみ[38]
。
仮称紫電練習戦闘機型(N1K2-K)
二一型を複座とし練習機としたもの。胴体は延長されておらず、速力若干低下[38]
。小数機生産。
紫電改鋼製型
紫電改を鋼製化したタイプで、計画のみ。重量が増大するため、翼端延長の予定[38]
。
[編集]諸元
制式名称 紫電一一型 紫電二一型
機体略号 N1K1-J N1K2-J
全幅 11.99m
全長 8.885m 9.376m
全高 4.058m 3.96m
翼面積 23.5m
翼面荷重 165.96 kg/m 161.70 kg/m
自重 2,897kg 2,657kg
正規全備重量 3,900kg 3,800kg
発動機 誉二一型(離昇1,990馬力)
最高速度 583km/h(高度5,900m) 594km/h(高度5,600m)
実用上昇限度 12,500m 10,760m
航続距離 1,432km(正規)/2,545km(過荷) 1,715km(正規)/2,392km(過荷)
武装
主翼下ポッド20mm機銃2挺(携行弾数各100発)
機首7.7mm機銃2挺(携行弾数各550発)
翼内20mm機銃4挺
(携行弾数内側各200発、外側各250発)計900発
爆装 60kg爆弾4発、250kg爆弾2発
生産機数 1,007機 415機
生産機数はそれぞれ一一型全体、二一型以降の数値。
[編集]実戦
[編集]紫電一一型
紫電搭乗経験者の中は、零戦に比べて機銃の命中率が高く、高空性能・降下速度は優れていたが、鈍重で空戦性能は零戦より遥かに劣る「乗りにくい」戦闘機で
[48]
、F6Fには手も足も出なかったとしている[49]
。初めて紫電を見た笠井は、紫電が
F4Fワイルドキャットと酷似していたと証言。陸軍の誤射で撃墜された機体や、逆に米軍機を誤認させて接近し撃墜した例もあるという
[50]
。また着陸時に油圧で二段式に縮めて格納する引き込み脚部のトラブルは深刻だった。343空戦闘301隊では1月1日から8日にかけて、3日に1機の割合で脚部故障により紫電を失っている
[20]
。
このように紫電は数々のトラブルを抱え、米新鋭戦闘機に対しての優位も確保出来ていなかったが、第一航空艦隊で新編成される10個航空軍のうち4個(341空、初代343空、345空、361空)が紫電装備予定とするほどの期待を集めた
[51]
。だが紫電の生産は遅れ、日米機動部隊の決戦となったマリアナ沖海戦に参加した紫電部隊は1つもなかった。初代343空は零戦で戦い、345空、361空は紫電の供給もなく解隊された。
第341海軍航空隊に最初の紫電が配備されたのは1944年1月だが、零戦との交替は遅々として進まず、7月の時点でも編隊飛行訓練を
九三式中間練習機で行っていた[52]
。8月から9月にかけて341空が台湾・高雄に進出し、10月にはウィリアム・ハルゼー
提督率いる第38任務部隊を迎撃した。10月12日、紫電31機と米軍機60機が交戦し、米軍機撃墜10、紫電14機喪失という初陣であった
[52]
。10月15日まで台湾沖航空戦を戦った。11月、341空と201空はフィリピンに進出して
レイテ沖海戦に参加する[52]
。紫電は米軍新鋭機との空中戦、強行偵察[53]
、米魚雷艇攻撃など多様な任務に投入され、機材と搭乗者双方の疲弊により消耗していった
[54]
。1945年1月7日、341空から特攻機・直掩機ともに紫電で編成された特攻隊が出撃した
[55]
。こうして341空は全装備紫電を失い[56]
、フィリピンから台湾へ撤退した[57]
。
沖縄戦では偵察十一飛行隊、偵察十二飛行隊に配備され、台湾から出撃した。ここでは制空任務だけでなく、強行偵察、戦果確認、索敵任務に投入された。本土防空戦にも数多くの紫電が参加し、343空にも紫電が配備されている。坂井三郎は343空で紫電の教官を務め、彼の教える戦闘701隊は紫電の事故が他部隊に比べて最も少なかったという
[58]
。1945年3月19日の著名な戦闘にも7機の紫電が出撃し
[59]
、1機が撃墜された[57]
。5月29日は戦闘403飛行隊6機の紫電がB-29を迎撃して2機を撃墜、7月8日には16機の紫電が50機のB-29、250機の
P-51マスタングを迎撃して4機を撃墜するなど
[60]
、劣勢ながら奮戦している。なお、1945年2月17日の米機動部隊艦載機との戦闘では、紫電に搭乗していた山崎卓(上飛曹)が横浜市杉田上空で落下傘降下。
[61]
。(なお、山崎は降下の後に暴徒化した市民によって殺害され、以降日本海軍ではパイロットに味方であることを示すため、飛行服及び飛行帽に日の丸を縫い付けることとなる)尾翼にカタカナのヨ−のマ−クをつけた紫電は横須賀航空隊に配備され終戦まで京浜地区の防空にあたる。